1608年の望遠鏡発明以前にも、日の入りや日の出時の太陽面に金星が観測された可能性はありますが、確かな記録は見つかっていません。
ヨハネス・ケプラー(1571~1630年)は、自分自身の書いた「ルドルフ表」に基づき1629年に、1629~1636年の惑星位置を計算していました。ここで1631年12月7日(彼が死んだ年の翌年)の「金星の太陽面通過」を予報していましたが、その次に起こる「金星の太陽面通過」は1761年と計算していました。また、おおよそ120年の周期で起こることを見出していました。(資料5, 資料6, 資料7)
ケプラーはまた、水星の太陽面通過が1631年11月7日に起こることも予報しました。フランスのピエール・ガッサンディ(1592~1655年)がこの予報にもとづき、惑星の太陽面通過という現象をはじめて観測しました。ケプラーの予報に対して5時間ほどの違いしかありませんでした。ほかにも、この水星の太陽面通過を3人が観測していましたが、詳しい記録を残していたのはガッサンディだけです。
ケプラーは1631年の12月7日に、金星も太陽面通過すると予報していたのでガッサンディはその観測も試みましたが、残念ながらパリが夜の時間帯のため観測できない通過でした。(資料6,資料7,資料8)
ジェレマイア・ホロックス(1618~1641年)は、イギリス、ランカシャー州リヴァプール近くにある、トクステス・パークの貧しい家庭の生まれでした。(生年のはっきりした記録がなく、資料によっては1619年生まれとなっています)彼は、1632年、給費生としてケンブリッジ大学のエマヌエル・カレッジに入学します。
当時としては新しいティコ・ブラーエ(1546~1601年)やヨハネス・ケプラーの天文学などは講義内容にまったく含まれていませんでした。ホロックスは大学の図書館に通い、独学で天文学を学ぶようになります。(14~15歳のころです!)
1635年(17歳頃)、ホロックスは、学費が払えなくなったためでしょうか、卒業しないまま大学を去りトクステスにもどります。
彼は、ケプラーの惑星運動理論で使われていた軌道データを改良し、その結果を観測により確かめるようにしていました。こうして、彼はより正確な天体の位置計算ができるようになったのです。
ランカシャー州プレストン近郊にある、フールという村の教会の牧師補となったホロックスが1639年秋にたどりついた結論は、「金星の太陽面通過」は、ケプラーの発見したおよそ120年周期内に2度起こること、その2度は8年間隔で起こることでした。
ホロックスが宿泊していた観測場所「カー・ハウス」(Carr House)や 彼が働いていた教会は現存しています。
こうしてホロックスは、みずからの計算により、1639年12月4日(当時のイギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に金星が太陽面を通過することを知りました。ホロックスは1638年に、半クラウン銀貨を支払って小さな望遠鏡を手に入れています。
現地時間午後3時過ぎに太陽面通過になる計算でしたが、念のため、前日から観測をはじめています。当日も、日の出から9時まで、10時から正午まで観測しましたが、空はくもりがちでした。ときおり太陽がのぞくときもありましたが、黒点以外には何も見えませんでした。
日曜ということもあり仕事のため観測を中断しなければなりませんでした。午後3時すぎに教会の仕事から解放されたホロックスは午後3時15分、急いで観測を再開。おしくも金星が太陽面に入っていくところはみそこなったものの、ちょうど太陽面に入った金星が見えていたのです!
冬の早い日の入りで観測できなくなる午後3時50分までの35分間、ホロックスは「金星の太陽面通過」の観測をすることができたのです。
彼は日の入りまでに、太陽面を移動する金星の位置を3度測定しています(午後3時15分, 35分, 45分)。金星像の大きさを 角度の76秒と見積もりました。
ホロックスによる観測の記述に基づきドイツのヨハン・ヘベリウス(1611~1687年)が描いた図です。
このような天頂方向を上にした図の場合、金星はゆるやかな曲線を描いて移動しますが、ヘベリウスは直線移動した図にしています。しかも、3回の観測の間隔は20分と10分であったのに、金星は等間隔になっています。(資料8,資料43, 資料44, 資料45, 資料46, 資料47)
彼の友人で、マンチェスターにいた織物商のウィリアム・クラブトリー(1610~1644年)も、あきらめかけていた午後3時35分、突然晴れ間があらわれ、日の入り直前の空に「金星の太陽面通過」を観測することができたということです。 クラブトリーは大学で学んだことはありませんが、書物を買い求めて独学で天文学を身につけていました。 この2人は、世界で初めて「金星の太陽面通過」を観測したことになります。ホロックスは1641年、短い生涯を閉じます。 死因はわかっていませんが、クラブトリーに会う直前でした。まさに突然のことだったようです。そして、1644年には クラブトリーもこの世を去っています。(資料8,資料9,資料20)