1874年(明治7年)12月9日、日本を含むアジア地域で、金星の太陽面通過の全過程が観測できるということから、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、アメリカ、メキシコなどが世界75箇所もの地点で観測を行いました。そのなかで、アメリカ、フランス、メキシコは日本にも観測隊を派遣しました。(メキシコは日本のみ)(資料2)
明治政府ができて間がない混乱のなかでした。東京大学も、東京天文台もまだありません。各国からの観測計画を知った政府はその意義が理解できず、当時の文部省顧問であったアメリカ人教育者ダヴィッド・モルレー(David Murray もとアメリカ、ラッガース・カレッジの数学・天文学教授)に解説を求めました。モルレー氏が、金星の太陽面通過の解説を交えて、日本で観測する観測隊への協力要請を文部省に提出したものが、「金星過日」(きんせいかじつ)という文書です。(上の写真)アメリカ隊に随従して観測にも立会い、報告書も提出しています。 (資料35、51、関連ページ:国立天文台図書室・貴重資料展示室)
自然科学の観測を行うための入国許可要請であることが理解されるには時間がかかったようですが、最終的に許可がおりました。
アメリカ隊は長崎に、フランス隊は長崎と神戸に観測所を設置しました。いっぽう、メキシコ隊は中国という選択肢も考えていましたが、時間的余裕もなく、この季節には晴天が多いこと、外国人に友好的であること、物資の輸送にも便利だということで、横浜に観測所を設置しました。日本政府はメキシコ隊のため、横浜電信局から観測地点まで電信線を引いています。隊長は感謝しこれを用い、アメリカ隊、フランス隊と電信で連絡がとれるようになり、経度観測も行っています。観測結果も直ちにグリニッジ天文台に送ることもできました。金星の太陽面通過を機に、日本の経度が世界とつながることになったのです。 (資料1、資料2、資料3、資料4、資料16、資料35、資料37、資料42、資料51、資料55~62)
それぞれの地に記念碑が作られています。
長崎市には、アメリカ隊が観測した大平山(現在の星取山)に記念碑となるものは何も残されていませんが、立山町コンピラ山の金刀比羅神社(標高280m)の裏山には、フランス隊の隊長ジャンサンが建てさせた金星観測碑が残っています。高さ205cm、底辺の長さは163cm。フランス語で観測の事実、隊員氏名、経緯度などが刻まれていますが、砂岩のため傷みが目立ち読み取りにくくなっています。
神戸市には、生田区諏訪山公園内に、円柱形(高さ159cm、周囲189cm)の記念碑が残されています。前面にはフランス語で観測の事実、ジャンサンらの名前、裏面にはその和文が刻まれています。花崗岩でできており、保存状態も良好です。(資料2、資料35、資料39、資料50、資料51)
快晴だった横浜での観測は大成功であったそうです。
横浜の観測地点は相互に2kmほど離れた2箇所(野毛山と山手)あり、山手観測所(フェリス女学院中学高等学校の第1グラウンド内。当時の痕跡は残っていません)付近に観測百周年を記念した記念碑が設けられ、通学路からも容易に眺めることができます。(協力:フェリス女学院資料室)
また野毛山観測所付近にも観測百周年記念の記念碑が、JR桜木町駅から徒歩10分ほどの距離にある神奈川県立青少年センター敷地内に設けられました。裏面には、記念碑設立に尽力された方々の名前が記されています。
書かれている内容は以下のとおりです。
EL TRANSITO DE VENUS 9 DICIEMBRE 1874 金星太陽面経過観測記念碑 明治7年(1874年)12月9日メキシコ観測隊 (隊長フランシスコ ディアス コバルービアス) ならびに日本水路寮の海軍中尉吉田重親らは下記 地点において金星の太陽面経過の観測に成功した ここに100年の記念日を迎え 神奈川県及び 横浜市の協力を得てこの碑を建て後世に伝える 第1観測地点(野毛山) 東経139°37'48" 北緯35°26'45" 第2観測地点(山 手) 東経139°39'02" 北緯35°26'07" 昭和49年(1974年)12月9日 金星太陽面経過観測記念碑設立期成会
野毛山の方では、今も宮崎町の民家の庭に、当時望遠鏡を設置するために使われた観測台石が大切に保存されています。(資料3、資料38、資料41)